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  1. 足あと帳(1)
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土佐佐竹は美濃佐竹の分流

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2018年 7月 3日(火)19時48分31秒
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  「佐竹氏といえば発祥の地で戦国大名となった常陸佐竹氏、関ケ原合戦後の国替で出羽に移った秋田佐竹氏が有名です。この二大佐竹氏の影に隠れてあまり知られていない佐竹氏に岐阜県の美濃佐竹氏と高知県の土佐久礼佐竹氏がいます。美濃佐竹氏は、室町幕府足利将軍の弓術指南を務め、幕府奉公衆に名を連ねました。土佐久礼佐竹氏は南北朝に移住した説が有力で、四国を統一した長曾我部氏の重臣として活躍しました」。富山章一常陸佐竹研究会会長の見解です。
土佐佐竹は、この美濃佐竹の分流という説があります。
 
 

長宗我部慰霊祭です。

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2017年12月 1日(金)22時43分10秒
返信・引用
  参集した桑名龍吾高知県議会議員、久武高知市民生委員児童委員協議会元会長、波川玄蕃子孫町田氏と長宗我部ゆかりの者で会合を開こうという事で話が弾みました。
 

宮城県から柴田外記の故郷を訪ねて来られました。

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2017年11月18日(土)20時23分56秒
返信・引用
  宮城県柴田町で教師をされている鈴木哲也さんが柴田外記の父佐竹親直のふるさとの地を調査に来られました。
柴田町で行われていた柴田外記に関する企画展を見られたのがきっかけで、土佐を訪れることになったものです。
長宗我部の居城の岡豊城、長宗我部元親の宝篋印塔や秦神社、雪蹊寺を訪れた後、中土佐町に残るゆかりの久礼城址、菩提寺常賢寺跡、第14代城主佐竹信濃守義直五輪塔、上ノ加江佐竹菩提寺禅源寺跡、佐竹太郎兵衛尉義秀蔵人佐親直親子五輪塔、菩提寺善賢寺(佐竹義直家族位牌、佐竹義秀位牌)を案内。
池田洋光中土佐町長も表敬訪問。高知市のひろめ市場で、土佐佐竹一族の会の会長等で歓待、交流を深めました。
訪問記録はDVDにされる予定との事、楽しみです。
 

よさこいソーランに関わった一族

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2017年 5月31日(水)22時12分47秒
返信・引用
  よさこいソーラン。
きっかけは高知を観光中に見たよさこい祭りだ。
当時、北海道大学の学生だった長谷川岳参議院議員はこれを北海道で開催したいと思い、相談に行った北海道庁で、最初は難色を示されたが、当時の北海道副知事が上ノ加江出身の佐竹土佐男だった。
土佐出身の副知事という事で情報が伝えられ、それを聞いた副知事は、持ち前の男気を出し、「今度、高知から橋本大二郎知事が来るから紹介するのでその時に話してみなさい」と返答された。その後は、トントン拍子に話が進み、今では、本家のよさこい祭りを凌ぐ、よさこいソーランとして北海道観光の目玉にもなっている。
よさこい鳴子踊りとよさこいソーランの隠れた秘話だ。
なお、入庁するきっかけは、上ノ加江矢井賀出身の野口常利副知事(野口清水・元中土佐町長の兄)の縁という。
二代続いて上ノ加江出身の副知事が北海道に誕生している。
平成29年4月、北海道幕別町等に議員研修の帰路、札幌市で又従姉妹の佐竹土佐男の長男の尚さんが披露された。
 

久禮一族

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2017年 5月31日(水)22時02分24秒
返信・引用
  久禮姓の一族に逢った。佐竹大内蔵義信の子孫である。高知県庁に勤務しておられ、亡くなられたご尊父様の遺品を整理していたら久禮姓の過去帳が出てきて、興味がわき調査しているという。明治になり、佐竹姓に改正した。
 

(無題)

 投稿者:名無しのリーク  投稿日:2017年 3月17日(金)14時29分12秒
返信・引用
  香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業  

(無題)

 投稿者:名無しのリーク  投稿日:2017年 1月24日(火)07時01分17秒
返信・引用
  香川県のパワハラ指切断企業フジフーヅ(ルーちゃんぎょうざ)  

久礼八幡宮の儀式佐竹神楽です。

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2016年 9月21日(水)23時03分7秒
返信・引用
  土佐佐竹の氏神の久礼八幡宮の五穀豊穣、領民安寧り祈り祝う御神穀祭の儀式に上ノ加江城主の子孫として神楽に出席しました。
久礼郷は、今の須崎市安和と久礼の北部地域を含む北村、久礼の中心街の中村、上ノ加江南村のの三か村から成り、久礼八幡宮は総鎮守でした。
毎年旧暦8月14日のこの日、久礼八幡宮宮司、禰宜と巫女、城主及び家老等で千鳥の盃を交わします。
領主として豊作を祈り、その年のできた新米と一夜酒で祝い、来年度も変わらずあることを願います。支配階級や搾取階級というマルクス・レーニン主義の階級闘争史観とは全く意を異にするものです。
 

佐竹義直入仏供養が広報誌の載りました。

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2016年 8月13日(土)11時31分14秒
返信・引用
  善賢寺で平成28年7月18日に行った佐竹義直入仏供養が、広報なかとさ8月号に載りました。中土佐町の公式記録に残ります。
 

柴田町と中土佐町

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2016年 7月19日(火)12時18分17秒
返信・引用
  柴田外記の子孫柴田節子さんが暮らす柴田町のしばたの郷土館で企画展「朝意公と意広公」が、今年3月26日から5月22日まで開催された。その際に、高知県中土佐町や柴田外記朝意の実家の上ノ加江、土佐佐竹と今の至る交流についての紹介コーナーが設けられ、その様子をしばたの郷土館水戸様からこのほど送られてきた。
400年の時を超える一族の繋がりがある。
 

佐竹信濃守義直入仏供養

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2016年 7月19日(火)09時23分51秒
返信・引用
  久礼城主佐竹信濃守義直の位牌を、中土佐町上ノ加江の上ノ加江佐竹の菩提寺善賢寺に安位する入仏供養を行いました。
位牌は久礼佐竹の菩提寺常賢寺で常賢寺6世安州元宅が寛文13年(1673)に作成していたものですが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、久礼佐竹の本家で預かり事情で中土佐町教育委員間が保管していたものを、善賢寺で供養することになったものです。
位牌は、高さ108センチメートルで、中央に「捐館常賢寺殿前信州太守竹甫常賢大居士神儀」、右側に竹應白水上座、桂陰禮久大姉、袋庵古閑居士、左側に覚翁常圓禅定門、天應常春禅定門の戒名が刻まれています。祖父玄蕃頭義辰や両親掃部少輔義之、子供太郎兵衛尉義秀・兵部少輔親辰の戒名です。
平成28年7月18日、上ノ加江佐竹子孫、土佐佐竹一族の会、善賢寺護持会、中土佐町教育委員会等20名が主席し、厳粛なうちに執り行いました。
 

義直公が二人いた

 投稿者:小田部一彦  投稿日:2016年 5月 9日(月)08時10分24秒
返信・引用 編集済
  土佐佐竹氏のホームページをみて佐竹義直公がいるのを知った。
私の住む額田城も義直公がいる。
佐竹義直は佐竹五代佐竹秀義の二男で額田城初代城主である。佐竹額田10代の礎を築いた。【義重家譜】には次を常陸三郎義直という。額田の祖なり。と記されている。鱗勝院に秀義を弔うため義直が建立したと伝えられ、佐竹氏の五本骨扇に月丸の家紋が今でも使用されている。菩提寺として佐竹氏の墓石が伝えられている。
額田城は面積に置いて東京ドームの21.5倍の面積を有する茨城最大の面積をほこる。額田の街の4分の3は堀の中にあった。本家が上杉から養子を迎えるため、分家からの養子をと主張、分家連合軍対本家の戦いがおこり、山入側として戦う。戦いに敗れ、170年の佐竹時代は終わるが本家家臣小野崎氏が後継、後に更に強大となっていく。ちなみに小野崎氏は佐竹昌義公に敗れた太田城主藤原氏が祖である。170年後にまたまた本家との戦いに敗れ、340年の額田城は落城する。本丸、二ノ丸、三の丸から11の丸まであり難攻不落と言われました。1591年秀吉の命を受け、佐竹全軍の総攻撃により、やっと落城しましたが伊達政宗を頼り、陸奥へ逃げ伸びますが水戸徳川家の家臣として復活します。伊達政宗との密書が東日本大震災で見つかり一躍クローズアップされました。

http://www.nukada.jp

 

北酒出氏

 投稿者:小田部一彦  投稿日:2016年 5月 9日(月)02時21分59秒
返信・引用 編集済
  北酒出城(北酒出)茨城県那珂市
 南酒出城の北西、久慈川低地を臨む台地突端部にあったと伝えられる。
 駒形神社北側の久慈川低地に張出した台地が城祉と思われるが、場所としては遺構は確認されていない。
 おそらく自然地形を要害に利用した城であったとおもわれる。

 佐竹氏4代秀義の子助義が鎌倉時代初期に築いたと言われる。助義は承久の乱で軍功を挙げ、領地として与えられた美濃国に移り、美濃佐竹氏の始祖となり、城は未完成のまま廃城となったと伝えられる。
 北酒出氏はその後常陸国に帰還し、常陸太田の馬場城の城主となり、子孫は佐竹氏の秋田移封に同行せず、車丹波らとともに水戸城奪還を企て破れて殺された。
 写真は城址と推定される舌状台地を西側より見る。城祉推定台地先端部を北から見たものである。
北酒出(きたさかいで)城跡と言われているところです。北酒出と南酒出氏が混同されているので後日、那珂町史を調査し、報告いたします。なお、水郡線(水戸から福島郡山)に南酒出駅があります。北酒出氏の一部が帰還し、常陸太田の馬場城の城主となりが正しいか。

http://www.nukada.jp

 

Re: 土佐佐竹ルーツ異論

 投稿者:小田部一彦  投稿日:2016年 5月 8日(日)21時38分52秒
返信・引用 編集済
  > No.159[元記事へ]

佐竹敏彦さんへのお返事です。

> 土佐佐竹は、佐竹発祥の地の常陸から鎌倉期の承久の乱の後、後藤遠江守と共に土佐久礼浦に落着というのが通説となっている。
> 市村高男高知大学教授は、室町幕府奉公衆だった北酒出流美濃佐竹の一族で、細川氏一門の土佐守護赴任に伴い守護代級として下向した者とする論文を発表しました(「シリーズ織豊大名の研究1長宗我部元親(戎光祥出版)」。
> 私も、山城革島家に伝わる「土佐国佐竹此庶子也」と傍証にある北酒出八郎季義の兄で南酒出六郎と名乗った佐竹義茂の事績を調べるべく、岐阜県に調査に行きましたが、真実は「藪の中」。
> 鎌倉期の史料としての物理的証拠がなく、室町期南北朝の同時代史料から推論すると細川守護代説が妥当とするものです、最初、細川守護屋敷の田村庄近辺に居住していたが久礼が嫡流系統となり、久礼・上ノ加江では上ノ加江が本流ではなかったかとしている。

わたしの住んでいる那珂市に南酒出と北酒出があります。勿論、南酒出城跡もあります。びっくりいたしました。南酒出城跡
所在・・那珂市酒出   築年・・天正末年  築城者・・佐竹氏

  酒出の歴史
 佐都西郡酒出郷は平安末期には佐竹氏の所領であったが、治承四年(1180)源頼朝が佐竹秀義を討伐した後
奥七郡并太田、額田ともに収公された。
 秀義はのち文治五年(1189)頼朝の奥州征伐に参陣し御家人となり、二男義茂、三男助義はそれぞれ、南酒
出氏、北酒出氏を名乗った。
 承久三年(1221)承久の乱で宇治川の戦いで南酒出氏は戦功を挙げ、その後多くの支族を分立させた.

  南酒出城は 築城年代は定かではないが佐竹義茂によって築かれたと云われる。 承久の乱の功として四代佐竹秀義の子義茂に南酒出の地が与えられた。この義茂が南酒出城を築き南酒出氏を称したという。
その後、南酒出氏は美濃国山田郷の地頭として移った。

国期後半にいたりその名跡は佐竹一門の東家が受け継いだ。
  南酒出氏略系譜
 佐竹秀義―――義茂―――義俊―――義遠―――義頼―――義長―――義興―――義氏・・・・・義忠
      (南酒出氏)     (田谷氏)(森戸氏)     (白鳥氏)(町田氏)  (酒出氏)
        助義(北酒出氏)
  城の歴史と構造
 現在の残されている南酒出城跡は内宿集落より低く東に偏っており、南酒出氏の城ではなく、額田城を攻撃するため
佐竹氏が設けた付城、向城であったと考えられる。

http://www.nukada.jp

 

佐竹氏発祥の地から

 投稿者:小田部一彦  投稿日:2016年 5月 8日(日)21時00分20秒
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  はるばる常陸の国から
私の住んでいるところから佐竹寺(国指定文化財)があり、黄金の家紋、五本骨扇月丸がみられます。佐竹高校もあり、私の卒業した太田一高(創立114年)の応援歌は佐竹源氏の白旗が太田の館出る(いずる)時、関八州に敵はなく、草木もたてに靡きけり で始まります。秋田移封となり佐竹の紋が徳川の葵の紋に寺の紋が変えられ、神社も八幡潰しがありました。発祥の地にだけは領民の反乱をおさえるため残っています。今でも残る萱ぶきの佐竹寺をご覧ください。

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五本骨扇に月丸

 投稿者:小田部  投稿日:2016年 5月 8日(日)19時49分37秒
返信・引用
  那珂市には五本骨扇月丸の家紋のついたお寺があります。額田の鱗勝院と日本一の毘沙門天のある一乗院です。鱗勝院は額田佐竹氏の菩提寺、一乗院は佐竹氏が出家し出来たお寺です。

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常陸太田市から

 投稿者:小田部  投稿日:2016年 5月 8日(日)18時31分54秒
返信・引用 編集済
  今は茨城県那珂市に住んでいますが本籍は今でも常陸太田市です。1602年秋田移封前常陸の国の家臣団の姓だと言われて今日に至り、佐竹時代からの金砂大祭礼の古文書が発見され、新聞を賑わせました。今、地方の歴史を研究し、那珂市の観光案内等をしております。ホームページは私の住む地域の1249年創建の額田城等を綴っておりますのでご覧ください。佐竹5代義重公の2男義直公が額田城を創建し、340年続きました。

http://www.nukada.jp

 

横浜から中土佐町に尋ねて来られました。

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2016年 1月 5日(火)10時52分2秒
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  平成28年1月2日に、中土佐町上ノ加江の佐竹太郎兵衛尉義秀の墓を訪ねて横浜から来られた佐竹敦さんに従姉妹が遭遇。連絡をいただき、佐竹義秀や久礼城主佐竹信濃守義直の墓、久礼城址・佐竹神社を案内しました。
佐竹敦さんは土佐佐竹とは系統が違うそうですが、トラベルライターとして日本全国を旅しており、高知県にもご母堂しづ子さんと来られたという事です。ホームページ「歴史と旅」を開設されています。
 

長宗我部元親三女阿古姫子孫

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2015年11月 7日(土)22時58分14秒
返信・引用
  佐竹蔵人佐親直と長宗我部元親三女阿古姫の子柴田外記朝意の子孫で、米ニューヨークマンハッタン在住の日本画家佐藤可笑さんと原田隆志さん夫婦が来高された。佐藤さんは柴田節子さんの姪で東京町田市出身。念願だったという中土佐町の佐竹の先祖の柴田外記の父佐竹親直や祖父佐竹太郎兵衛尉義秀の墓参の後、高知市内で初対面した。400年を経ての突然の邂逅だったが、何も蟠りの無く極々親しい親戚の如く話が弾み、高知市長浜にある長宗我部元親の墓を案内させていただいた。次回は時間を取ってご両親等とゆっくり高知に来たいという事であり、DNAの繋がりは何物にも代えがたいものを感じた。
 

佐竹信濃守画像

 投稿者:佐竹敏彦  投稿日:2015年 9月 2日(水)22時13分14秒
返信・引用
  佐竹信濃守の画像を、中土佐町議会議員だった林勇作さんから遺品としていただいた。林さんは議員活動のほか中土佐町の歴史や文化の調査を行い造詣が深かったが、平成27年6月24日肺がんで逝去された。画像は、高知市の広報誌で郷土史を担当されていた広谷喜十郎さんから手に入れたものという。入手経路や経緯、画像の信憑性等不明だが、土佐佐竹の画像として唯一のものである。佐竹信濃守義直か。
 

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